FAZER LOGIN取締役会は金曜日だった。
私は木曜日の夜まで会社に残っていた。
机の上には資料が並んでいる。
送金記録。架空会社。不自然な契約。三千万円。
さらに、輝が調べてくれた追加資料。
LUNAREST PARTNERSから、別の会社へ資金が移されていた。
その会社の実質的な関係者に、拓真の名前がある。
これで十分だ。
明日の取締役会で追及できる。
場合によっては社長解任。
私はUSBメモリを鞄に入れた。
午後十一時十二分。
スマートフォンにメッセージが届く。
輝だった。
《まだ会社か?》
《今帰る》
すぐに返信が来る。
《迎えに行く》
私は苦笑した。
《大丈夫》
数秒。
《その言葉が一番信用できない》
少し笑った。
《今日は車で来てるから》
返信が止まる。
そして、電話が鳴った。
「もしもし」
『車で帰るな』
輝の声。
「またその話?」
『玲花。頼むから今日はタクシーにしろ』
「根拠がない」
『根拠がなくてもいい』
「心配しすぎ」
『俺が迎えに行く』
「もう会社を出るところ」
『待て』
私は電話を切った。
今思えば、どうしてあんなに意地を張ったのだろう。
十五年前に私を捨てた男の言うことを聞くのが、嫌だったのかもしれない。
地下駐車場。
会社名義の、黒いセダン。
ドアを開ける。異常はない。
エンジンをかける。問題なし。
私は駐車場を出た。
夜の道路。
小雨が降っていた。
ワイパーが一定のリズムで動く。
自宅まで四十分。
明日の取締役会のことを考えていた。
拓真は何と言うだろう。
否定する?
私を責める?
美月とのことも持ち出す?
考えていたら、スマートフォンが震えた。
拓真。
私は出なかった。
また鳴る。
出ない。
三回目。
赤信号で停まったところで、私は電話を取った。
「なに?」
『今どこ?』
「帰るところ」
『会社から?』
「そう」
少し沈黙。
『車?』
妙な質問だった。
背中が冷たくなる。
「どうして?」
『雨だから心配で』
優しい声。
いつもの拓真。
でも今日は、違って聞こえた。
「大丈夫」
私は答えた。
『そう』
また沈黙。
『気をつけて』
電話が切れた。
信号が青になる。
アクセルを踏み、車が進む。
十五分ほど走ると、海沿いの道路に出た。
雨が少し強くなる。
前方に赤信号。
私はブレーキを踏んだ。
車が減速しない。
一瞬、理解できなかった。
さっきの信号では、普通に止まれたのに。
もう一度、強く踏む。
何も起こらない。
「え?」
ブレーキが、効かない。
心臓が跳ねる。
サイドブレーキ。
速度が少し落ちる。
でも止まらない。
前方に車。
私はハンドルを切った。
クラクション。
車体が滑る。
ガードレール。
衝撃。
身体がシートベルトに食い込む。
視界が回った。
そして、車が宙に浮いた。
一瞬だけ。
本当に一瞬。
時間が止まったようだった。
目の前に、黒い海。
次の瞬間。
激しい衝撃。
水。
車が沈んでいく。
私はシートベルトを外そうとした。
手が震えて、外れない。
落ち着け。
落ち着いて。
息を吸う。
冷たい水が足元から入ってくる。
膝。
腰。
胸。
スマートフォンを探す。
ない。
窓は開かない。
ドアは水圧で動かない。
「いや……」
初めて声が出た。
死ぬ。
その言葉が頭に浮かぶ。
拓真。
美月。
三千万円。
明日の取締役会。
そして、最後の電話。
《車?》
どうして聞いたの。
私が車に乗っているかどうか。
なぜ確認したの。
水が首まで来る。
私は拳で窓を叩いた。
何度も。
何度も。
割れない。
息が苦しい。
そのとき、思った。
事故じゃない。
これは。
殺される。
拓真に。
視界が暗くなる。
身体から力が抜けていく。
最後に見えたのは、水の向こうから近づいてくる白い光だった。
人影。
窓の向こうに、誰かがいる。
そこで、私は意識を失った。
午後十時五十五分。MIZUKI DESIGN旧本社。二年前に本社を移転してからは倉庫として使われ、今は売却を待っているビルだ。人の気配はほとんどない。一階の暗いロビーに、私は一人で立っていた。見える範囲では、本当に一人。でも、輝は別室にいる。美月もいる。警備会社のスタッフも建物内にいる。音声も映像も、弁護士のもとへ届いている。午後十一時。自動ドアが開き、拓真が入ってきた。一か月以上ぶりに見る夫だった。痩せた。髪も少し乱れている。でも、十年間毎日見てきた顔だ。拓真は私を見て、止まった。本当に、幽霊を見たような顔だった。「……玲花」私は答えた。「久しぶり」彼の唇が震える。「生きて……」「残念だった?」「違う!」拓真が近づこうとする。私は一歩下がった。「そこにいて」拓真が止まる。「玲花、聞いてくれ」「聞くために呼んだの」「全部誤解なんだ」思わず笑った。「便利な言葉ね」「俺はお前を殺そうとなんてしてない」「じゃあ、何をしたの?」「何も」「ブレーキ」拓真の顔が変わった。ほんの一瞬。でも、見逃さない。「何の話だ」「LUNAREST PARTNERS」沈黙。「三千万円」「会社の正当な支出だ」「私の辞任届」「会社として必要だった」「事故の二日前に?」拓真が黙る。私は一歩前へ出た。「MIZUKI DESIGNのお金を移して」もう一歩。「資金繰りを
美月からUSBを受け取ったのは、翌日の夜だった。場所は、輝が指定したホテルの地下駐車場。人目につかない場所だ。美月はタクシーで来た。帽子を深く被り、何度も後ろを振り返っている。「これです」差し出された小さなUSBメモリを、私は受け取った。「中身は?」「拓真さんとの会話です」「いつの?」「玲花さんの事故の前日です」私は輝を見た。彼がノートパソコンを開き、USBを挿す。音声ファイル。日付は、事故の前日。再生。最初に聞こえたのは、グラスの触れ合う音。店内のBGM。そして、拓真の声。『明日で終わる』私は息を止めた。美月の声。『何が?』『玲花のこと』『どうするつもり?』少しの沈黙。『しばらく会社から消えてもらう』『それって……』『心配するな』そこで一度、録音が途切れる。次のファイル。拓真の声。『ブレーキだけでいい』私の手が止まった。『死ななくても、しばらく会社から消えてくれればいい』美月。『そんなことしたら事故になるでしょ』『事故になればいいんだよ』空気が凍った。私は何も言えなかった。録音は続く。『もし死んだら?』美月の声。そして、拓真。少し笑っている。『それならそれで、面倒が減る』そこで、私は再生を止めた。それ以上は、聞けなかった。輝が無言でパソコンを閉じる。美月が泣いていた。「ごめんなさい」私は彼女を見た。「カフェで、車のことは知らなかったって言いま
拓真は確信していた。玲花は生きている。写真。メール。消したはずの情報を知っている。偶然ではない。問題は、どこにいるか。誰といるか。そして、どこまで知っているか。拓真は一人の男に連絡した。「女を探してほしい」『誰です?』「水城玲花」沈黙。『事故で行方不明の人じゃ……』「生きてる」『警察は?』「余計なことは聞くな」拓真はいくつかの住所を送った。玲花の友人。親族。そして、神谷輝。その名前を打ち込んだとき、拓真の眉が動いた。大株主。玲花の元恋人。事故の前に、二人が会っていた記録もある。「神谷……」嫌な予感がした。◇その頃、私は隠れ家の窓辺に立っていた。夕方。外は静かだった。輝は仕事の電話をしている。私はコーヒーを飲んだ。昨日の喧嘩以来、少し気まずい。でも今は、それより考えることが多すぎる。証拠。拓真。これからのこと。ふと、道路に目をやる。一台の黒い車。見覚えがある。さっきから、ずっと停まっている。エンジンは切っていない。私はカーテンを少し閉めた。「輝」「何」「外」彼が近づいてきて、窓の外を見る。表情が変わった。「どれだ」「黒い車」「いつから」「分からない」輝はスマートフォンを手に取った。「ここを出る」「今?」「今だ」「大げさじゃ……」「玲花」
私と輝は、また喧嘩をした。理由は、十五年前のことだった。「もう逃げないで」私は言った。「逃げてない」「じゃあ話して」輝は黙る。「お父さんに何を言われたの」「玲花」「もうお父さんはいない」父は六年前に亡くなった。だからこそ、今さら本人には聞けない。「知りたいの」輝は窓の外を見た。そして、ようやく口を開いた。「当時、会社はかなり危なかった」それは知っている。あのころ、父の会社は資金繰りに苦しんでいた。「銀行から追加融資を受ける必要があった」輝が続ける。「そのとき、大手企業の創業家との縁談が持ち上がった」「私の?」「そう」「それとあなたが別れることに、何の関係があるの」「相手の家が、君に恋人がいることを気にしていた」私は言葉を失った。「お父さんが……」「俺に、別れてほしいと言った」「それで別れた?」「そうだ」怒りが湧く。「私に相談もせずに?」「相談したら、君は父親と会社を助けるために、自分を犠牲にした」「勝手に決めないで!」「分かってる」「じゃあ、その縁談は?」輝は少し苦しそうに答えた。「結局、成立しなかった」「……何?」「君のお父さんは、別の金融機関から資金を調達できた。正式な婚約になる前に、話はなくなった」「じゃあ」私は笑った。笑うしかなかった。「何のために別れたの?」輝は答えない。「そのあと、戻ってくればよかったでしょう」「戻ろうとした」初めて、輝がそう言った。「会社が持ち直した半年後に」私
翌日。会社のサーバーから、複数のファイルが削除され始めた。会計。契約。社内メール。私は監査用バックアップの画面を見ていた。「始まったな」輝が言う。「拓真が気づいた」通常のサーバーからは消えていく。でも、監査用バックアップには残る。「消せば消すほど、操作ログも増える」私は言った。削除を実行している管理者IDは――青木。退職したはずの人間のアカウントが、まだ生きている。「青木さんは、まだ拓真とつながってる」◇その日の夜。拓真のスマートフォンに、一枚の写真が届いた。送り主は、彼が雇った調査員。《この女性ではありませんか?》小さなカフェ。帽子。眼鏡。横顔。変装としては悪くない。しかし、十年一緒に暮らした夫には十分だった。拓真は画面を拡大した。手。鞄の持ち方。俯いたときの首の角度。「玲花……」もう一枚。店を出る女性。その後ろに、神谷輝。拓真は確信した。玲花は生きている。そして、神谷と一緒にいる。恐怖が、一瞬で怒りに変わった。拓真は電話をかける。「間違いない」低い声。「水城玲花だ」◇その頃、私は三通目のメールを作っていた。《拓真へ。会社のサーバー、ずいぶん整理してるみたいね。でも残念。消す前に全部見た。青木さんにもよろしく。玲花》輝が画面を見て言った。「送るのか?」「送る」
カフェを出たあと、私たちはすぐに場所を移した。輝の車の後部座席には、美月も乗っている。「本当に会社の車だった?」輝が聞く。「はい」美月が答える。「ナンバーも覚えてます」私はそれをスマートフォンにメモした。「誰が運転してた?」「分かりません」「拓真?」「違うと思います」私は窓の外を見た。では、誰なのか。会社の中に、まだ誰かいる。拓真の協力者が。隠れ家へ戻ると、私は以前保存していた経理データをもう一度開いた。ひとつの名前が浮かぶ。青木。経理責任者。《この件は、あまり触られない方がいいかもしれません》あの言葉。「まさか」でも、調べない理由はない。私は監査用バックアップの人事データを開いた。答えはすぐに出た。「青木さん、辞めてる」「いつ?」輝が聞く。「事故の三日後」私は息を止めた。退職理由は「一身上の都合」。記録にあった番号に電話をかけてみる。つながらない。輝が人を使って自宅を確かめると、すでに引っ越したあとだった。私は椅子に座り込んだ。「逃げた」輝が言う。「もしくは、逃がされた」青木。父の代からいる人。私が子どものころから知っている人。会社で何度も助けてもらった。その人まで。「裏切ってたのかな」声が少し震えた。輝は答えなかった。そのとき、美月からメールが届いた。《青木さんのことなら、少し知ってます》私はすぐに電話をかけた。「何を?」『拓真さんと、よく会ってました』